そして昭和27年、新丸ビルの完成と前後して、高さが31mに統一された第2次丸の内が完成されていく。その丸の内もいつしか「重厚長大」と揶揄されるようになり、夜間人口との極端な差が街としての存立を危ぶみ、新しい副都心、新宿・渋谷・池袋、さらには横浜・千葉を含む湾岸地区との“本社争奪競争”に巻き込まれていった。“まち”としての絶対的な競争優位を 失いつつあったのである。その丸の内が今、姿を大きく変えようとしている。
その手法は、画期的な事業だったと将来から評価を受けることになろう、“まち”のブランド・マネジメントによるものである。
初事例「丸の内」ブランド戦略とは
その歴史からいっても、3割という圧倒的な占有割合からいっても、丸の内の大地主として自他ともに認める三菱地所が、新生丸の内のまちブランド戦略の仕掛け人である。自らの旗艦であり、“まち”のシンボルでもあった“丸ビル”の建て替えを契機に、画期的かつ大胆なブランド戦略を展開しつつある。
その特筆すべき戦略の第一は、組織である。三菱地所には現在、「街ブランド室」というセクションが作られている。企業活動においてさえ、多くがブランド・マネジメントの重要さに気づいていない状況にあって[当時]、自社を飛び越して、“まち”のブランドを管理運用する担当部署を作ってしまったのである。
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